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鍋島焼

17-19世紀に、佐賀藩(鍋島藩)において藩直営の窯として製造された磁器

佐賀鍋島藩が、岩谷川内に藩窯を設けたのは1628年です。有田で、日本初の磁器生産が行なわれてから20年ほど経っていました。1661年には酒井田柿右衛門窯の近く の南川原山へ移りました。1640年頃に柿右衛門が完成した色絵の技術を学ぶためと考えられています。その僅か13年後の1675年には大川内山に移り、1871年に佐賀鍋島藩が廃されるまで続きました。

当初は、藍鍋島と呼ばれる染付を焼いていて、伊万里焼の技術を導入しました。また、青磁は、当時、中国が生産地でしたので、日本でも珍重されました。その青磁を鍋島藩が完成させるのに苦心し、完成させた副田家の子孫は代々藩窯の総監督として重用されたほどです。青磁の優秀な原料が大川内山で発見されたのも幸いでした。

また、藩窯の目的は、禁裏・公家・徳川家への献上や大名・高家への贈答でした。市販品は、生産されませんでした。高貴な方への献上品、贈答品ですので、珍しい物や貴重な物を作ることが要求されました。高級な焼き物を生産するために、大川内山に御用窯を築き、優秀な職人を集めました。厳しい管理下で高級磁器の生産を徹底した分業制で行い、技術の漏洩には特に気を配りました。献上品の多くは、色鍋島と呼ばれる染錦手の皿を主とした食器です。それも、日本独特の四季を感じさせる文様や現代にも通ずる文様などに彩られた焼き物です。会食の折りに、この焼き物に料理をのせて戴いたのでしょう。料理を愛で、焼き物を愛で、会食もおおいに盛り上がったことで しょう。色鍋島の焼き物は高い評価を得ました。高貴な方だけではなく、一般・庶民も磁器に料理を盛って会食を楽しんでいました。日本人の食文化も、焼き物抜きでは考えられません。

現在、御用窯で生産された色鍋島は、その特殊性もあり多くは美術館や博物館でしか見ることができません。明治維新により、佐賀鍋島藩も廃藩になり御用窯も廃せられました。御用窯が分業制であったこともあり、民窯として残ったのは5,6軒と言われています。更に、色鍋島を引き続き生産することは多難を極めましたが、今泉今右衛門家が赤絵座の責任者として鍋島藩窯と関わっていたこともあり、一貫した生産の技術を確立して人間国宝の評価を受けています。

今でも御用窯があった大川内山に、鍋島焼の技術を伝承し、日々制作する窯元があります。秘窯の里としても人気があり、お勧めの観光地です。日本の美が感じられる焼き物が並び、飽きることがありません。