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唐津焼

茶陶器の名品が作られ、土の味わいと自然で素朴な模様は、多くの人々を魅了

唐津焼は、佐賀県・長崎県の肥前地区で焼かれている陶器のことで、昔から茶器として名声を得ており、現在は、日本の伝統工芸品に指定されています。草創期の唐津焼は、白濁した藁灰釉をさかんに使いました。いわゆる岸岳系唐津と呼ばれ、関西までの西日本の地域と、東日本の日本海側地域に少量ながら流通しました。天生、文禄年間、1580年から90年代のことです。慶長七年(1603)には、「織部茶会記」に唐津水指がはじめて姿をみせ、方々の茶会で、佐賀にいる朝鮮陶工の焼いた茶碗が茶席に出されました。その頃には、こうした茶道具以外にも、碗・皿などを大量に生産したことは、後の窯跡出土品が多くを語っています。中世以来の瀬戸・美濃窯の施釉陶器に対抗し、全国の陶器市場を二分するまでに成長を遂げました。また、当時、隆盛をふるった松浦党が朝鮮半島との往来をする中で、引き連れた朝鮮陶工が生産を始めたと推測されます。

岸岳系陶器窯の技術は、ロクロ成形による碗・皿類を主に作るグループと、叩き成形により壺・甕・瓶・鉢などを作るグループに分かれます。窯は、それまでの日本に見られなかった山の斜面を利用した登窯構造で、割竹式(わりだけしき)と呼ばれます。隔壁によっていくつかの独立した焼成室が連なる構造です。この岸岳系唐津窯は、城主波多が、豊臣秀吉より文禄三年(1594)に改易され、保護者を失います。その結果、 この窯は姿を徐々に消しつつ、県内でも南の伊万里、武雄へと移ります。この時期の製品の特徴は、鉄絵であり、絵唐津とよばれる唐津焼の象徴です。

1600年代に入ると、鉄絵の生産は急速に減っていきます。代わって、白化粧土を使った型紙摺りなどが現れます。また、白土を充填した三島手(みしまで)や新たに表れた銅緑釉、鉄顔料の二色で文様を表し、流しかけた二彩手が始まります。すなわち、桃山時代の唐津焼(茶陶唐津)とは趣きが異なり、いわゆる、二彩手や三島唐津といった、力強く大胆な意匠の焼き物の時代が到来しました。その素朴な感じから、江戸時代の唐津焼は、柳宗悦(1889-1961)により、「民芸」の代表的な作品として評価されます。また、当時の伊万里焼と並び、国内に大きな市場を持ち、民窯としての認識を越え、海外へも輸出されていたことが近年判明しました。その間の唐津焼は、日本全国で評判がよかったため、江戸幕府に献上品が多く、献上唐津とも呼ばれていました。しかし、明治維新以降、藩の庇護が無くなった唐津焼は、生産を中止する窯元が続出し、存続が危ぶまれました。そのような状況においても、「叩き作り」といった古唐津の伝統的な技法を復活させ、唐津焼の再興に成功します。

唐津焼の種類は、大きく、絵唐津、無地唐津、朝鮮唐津、斑唐津、櫛目唐津、摺絵唐津、三島唐津、粉引き、奥高麗、青唐津、黄唐津、刷毛目唐津、彫唐津、堀の手唐津、二彩唐津など、実に幅広く分類されます。唐津は交易で栄えており、安土桃山時代には陶器の製造技術が大陸より伝来されました。唐津港から積み出された焼き物という由来から、唐津焼とも言われています。草創期に造った食器などには、すでに唐津焼の特徴である素朴さとわびの精神が作品に表れており、桃山時代には茶の湯の名品として広まり、茶人に「一楽二萩三唐津」と格付けされるようにもなりました。現在もたくさんの窯場跡が点在しております。

かつては、蹴ロクロと登り窯を使って作られ、現在もその技法が受け継がれ、その独特の味わいは、人々を魅了します。