TOP > 焼き物一覧 > 肥前吉田焼

肥前吉田焼

佐賀県嬉野市で焼かれている磁器で、四百年以上に亘り技を受け継ぎ、現代の暮らしに合った器を制作

肥前吉田焼の創業は、時をさかのぼること四百年前。天正五年(1577年)に、龍造寺隆信公が、大村の有馬氏を攻略するため軍を起こしました。吉田村を流れる羽口川の上流、鳴川谷の川底に、吉田城主の家来が白く光る石を発見したのが始まりと言われています。この石が、我が国最初の磁鉱石と言われます。

佐賀藩主鍋島直茂公は、朝鮮半島から多くの陶工を連れ帰り、そのうちの一人を吉田山へ送り込みました。当時の吉田村皿屋付近で陶土が採れ、初めての陶磁器が作られました。寛永年間(1624-44年)藩主鍋島直澄が隠居後、その遺業として、吉田山の陶磁器業者を督励しました。享和年間(1801-4年)には、副島弥右衛門が窯数を多く増やし、事業を大きくして肥前吉田焼を繁栄させました。また、大阪方面との取引も始め、大いに潤い、品不足になるほどでした。その後は、生産過剰で価格が下落し、また、他の陶業地が好機に向かうなど、一盛一衰にて明治維新を迎えました。

明治維新後は、政府の産業奨励により明治十三年(1880年)に、精成社という陶器製造会社を創立。その後、陶業界は、好景気の時代に入りますが、すぐに不況の波が押し寄せました。そこで、当時の長崎に住んでいた中国の商人と大規模な契約を締結し、中国向けの製品を大量に作りますが、中国が頼りのこの好機は、日清戦争が始まった後自然に衰退します。次に、伊万里の商人が朝鮮と貿易を結び、肥前吉田焼の販路拡大に努めました。朝鮮にわたり陶器店を開業する日本人も増え、ますます繁盛しました。しかし、尾張・美濃製品の台頭と第二次世界大戦後の不景気などに押され、そうした輸出をあきらめ、国内向けの品作りに方針を転換しました。現在の吉田山では、それぞれに個性溢れる窯元が肥前吉田焼の再興を目指して、日々技術の向上に励みます。

地理的に佐賀の有田や長崎の波佐見に近いため、それらの下請けとして表に出ず、長い間その技術を影で磨いてきました。そのため、肥前吉田焼には有田焼の絵付けのような独自の様式というものがありません。逆にいえば、決まった様式のない自由なものづくりが肥前吉田焼の特徴とも言えます。

地域産業の振興、窯業の活性化を目指しておまつりも開催されます。昭和六十二年より毎年四月に開催される「吉田おやまさん陶器まつり」は、陶器市を通じて、「作り手」と「使い手」の交流を図り、多くのお客様が訪れてにぎわいます。また、十一月の「吉田辰まつり」は、吉田皿山の先人たちから受け継いだ水の神様の八大龍王さんのおまつりです。毎年、豊かな水に感謝しつつ、陶器、お茶などの嬉野の特産物を販売します。