TOP > 焼き物一覧 > 小石原焼の作品一覧

小石原焼

高取焼との交流で、特色のある焼き物へと発展し、「用の美」を確立

小石原は、四方を山に囲まれ、その山間に開かれた高原の村の名前です。現在では、JR日田彦山線彦山駅からタクシーで10分ほどで、東峰村(旧小石原村、合併により消滅)に到着します。かつて、修験道が盛んだったころ、山伏たちが霊峰彦山(英彦山)に峰入りした修行の地でした。樹齢500年を越える杉の巨木が群がり、「行者杉」や「境目石」など、観光の名所となっています。

小石原焼(こいしはらやき)は、今から約350年前に始まり、現在の福岡県朝倉郡東峰村にて焼かれる器をさします。小石原で採れる土をもとに、伝統的な技法を受け継ぎつつ、生活で使われる器を作り続けます。また、遠州七窯の風格を今に伝える高取焼の流れをくむとも言われます。小石原の山では、器作りに適した土や薪がとれやすく、特に小石原の土は、鉄分が多いことが特徴です。現在は、50軒にのぼる窯元が点在し、特に国道211号線沿いと皿山地区に集中します。日本を代表する民陶の里の一つといってよいでしょう。

小石原焼の起源は、1669年に、初代高取八蔵の孫である八之丞が中野で陶土を見つけ、すり鉢や甕類を焼きました。その後、天和二年(1682年)に、筑前福岡藩三代藩主黒田光之が伊万里から陶工を招いて、八之丞とともに中国の製法にならって磁器を作りました。一時衰えますが、享保年間の末、高取焼にならい再興され、磁器から陶器を作るようになりました。

昭和に入ると、バーナード・リーチや濱田庄司が小石原村を訪れることにより、マスコミを通じて注目され、知名度が上がりました。昭和三十三年には、ブリュッセル万国博覧会でグランプリを受賞し、「用の美」として脚光を浴びました。

第二次世界大戦後の物資不足から、すり鉢や甕類などの需要が増え、民芸運動の活発化とともに、小石原焼が広く受け入られるようになりました。当時の日本民芸協団のリーダーである三宅忠一は、民芸運動を推進し、特に小石原焼の普及に努めました。昭和三十五年に、三宅によって、日本工芸館小石原館が設立されました。昭和五十年に、日本で初めて、当時の通商産業省の「伝統的工芸品」に指定されました。工芸館と陶器協同組合の発案で、現在も続く「民陶むら祭」が開催されました。三宅の熱心な働きかけと、民陶ブームを受けながら、小石原焼は発展を遂げました。小石原焼伝統産業会館では、先人たちの陶磁器が集められた展示室があり、そのほかに、現在の窯元の代表作や作るための原材料や道具などを展示します。また、気軽に体験できる陶芸工房もあります。

時代の流れの中で、繁栄と沈滞を繰り返しつつ、途絶えることなく生活雑器を作り続けます。手仕事が見直される現代では、その温もりが伝わる貴重な器の一つとして多くの人々に愛用されます。素朴で温かく、伝統を受け継ぎながら、新しい作風にも挑戦します。

小石原焼の技法

飛び鉋
・生乾きの生地に化粧土をかけた後、ロクロで回転させながら、湾曲した鉋で化粧土部分を削り取って模様をつける技法。
刷毛目・櫛目
・化粧土をかけてすぐ、ロクロを回転させながら刷毛や櫛を当てて模様をつける技法。
指描き
・化粧土をかけてすぐ、ロクロを回転させながら指で曲線の模様をつける技法。
流し掛け
・ロクロをゆっくりと回転させながら、壺などの側面に釉薬や化粧土を等間隔に流していく技法。
打ち掛け
・成形した作品に、釉薬を盃などに入れて少しずつ浴び掛ける技法。
ぽん描き
・竹の容器の口から流れ出る釉薬を調整しながら一気に描きあげる技法。